
トランクに希望
人と想いをつなぐ
楽譜の旅
1777年9月、モーツァルトは新天地を求める実質的な転職活動のため、ザルツブルクを後にします。母アンナ・マリアを伴い出発し、各地での称賛は受けるものの具体的なポストは得られず、旅は失敗に終わります。
1年半に及ぶ巡業の途上、最愛の母を亡くすという、過酷な不幸にまで見舞われる始末。
しかし、トランクに何曲かの楽譜を忍ばせてミニマルな移動を繰り返しながら旅を続けるモーツァルト。
ピアノ協奏曲第6番も旅を共にする楽譜のひとつでした。
モーツァルトのザルツブルク時代のピアノ協奏曲(第5〜10番)については「誰がための作品」をテーマに据えてお伝えします。
曲自体が持っている物語も追いかけながら、魅力に迫るシリーズです。
今回は「時と海を越えて旅する楽譜」モーツァルトの隠れた初期の名曲、ピアノ協奏曲第6番の解説とおすすめ名盤を紹介します。
時と海を越えて旅する楽譜

1777年9月、ザルツブルクでの低い待遇や束縛に不満を持つモーツァルトは、より良い環境を目指して演奏旅行へと旅立ちます。1776年に作曲したピアノ協奏曲第6番やその他何曲かの楽譜をトランクにしのばせての旅でした。
10月22日に滞在先のアウクスブルクで開催されたフッガー伯爵家の演奏会について、父親に宛てたモーツァルト自身の手紙があります。
「モーツァルトの手紙」
ヴォルフェック伯爵や、ベシェ(当時の名演奏家)を熱狂的に支持していた何人もの人たちが、先日の演奏会で「私はベシェを完全に圧倒してしまった」と公の場で口にしていました。伯爵は終始、会場内を走り回って「こんな演奏は一生の間、一度も聴いたことがない!」と言い触れていたほどです。
ヴォルフガング・アマデ・モーツァルト
1777年10月24日、アウクスブルクにて
国際モーツァルテウム財団(DME)ウェブサイトより引用
10月22日の演奏会において、披露されたプログラムの中には、ピアノ協奏曲第6番が含まれていました。
手紙を読み進めていくと、当時の演奏会に参加した人たちの称賛ぶりがうかがえて、微笑ましい気持ちになります。
フッガー伯爵家での演奏会曲目詳細
- 「ピアノ協奏曲第6番」
- 「ピアノ協奏曲第7番」
- 「ハ短調のフーガ」
- 「ハ長調のソナタとロンド(即興で)」
美しき少女のレパートリーに
フッガー伯爵家の演奏会から4か月後に、カンナビヒ家で行われた演奏会においてもピアノ協奏曲第6番が演奏されます。カンナビヒの愛娘ローザが鍵盤楽器を担当しました。
「モーツァルトの手紙」
昨日、カンナビヒ家で演奏会がありました。(中略)若きローザ(カンナビヒの娘)が、私の変ロ長調の協奏曲(ピアノ協奏曲第6番)を弾き(中略)非常に人気のある「古いニ長調の協奏曲(ピアノ協奏曲第5番 )」を弾き、さらに30分ほど即興演奏をしました。
ヴォルフガング・ゴットリープ・モーツァルト
1778年2月14日、マンハイムにて
国際モーツァルテウム財団(DME)ウェブサイトより引用
モーツァルトは別の手紙では、「彼女は15歳で、とても美しく、かわいい娘さんです」とも記しています。
マンハイム滞在中、モーツァルトは宮廷楽長で指揮者でもあるカンナビヒの娘ローザへピアノのレッスンも行いました。ローザは優れた才能の持ち主で、モーツァルトはピアノソナタ第7番を献呈するほどでした。
ピアノソナタ第7番の第2楽章アンダンテは、そんな彼女の清らかな面影をイメージして作曲されたとも言われています。
教え子の瑞々しい指先から奏でられるピアノ協奏曲第6番は、師であるモーツァルトにとっても格別の響きだったことでしょう。
師弟の絆から生まれたこの優雅な調べは、アウクスブルクやマンハイムの聴衆にも感動を呼び起こしたことが想像できます。
クライスラーとともに海を渡る楽譜
ピアノ協奏曲第6番の楽譜は、1799年に他作品とともにヨハン・アントン・アンドレが未亡人コンスタンツェから買い取りました。
19世紀に入り、アンドレのコレクションは子孫への相続や売却によって、その姿を消していきます。20世紀初頭に入ると伝説的ヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーの手に渡りました。熱心な自筆譜コレクターであったクライスラーは各地のオークションや私的な取引の中から楽譜を手に入れたのでしょう。
ユダヤ系のクライスラーは1939年にナチスの追求を逃れてアメリカへと亡命、1943年には市民権を得ます。戦時中から多額の寄付を続けていたクライスラーは、楽譜を個人の所有物ではなく人類共通の財産とも考えていました。
1952年にはピアノ協奏曲第6番を含む多くの自筆譜コレクションを、アメリカ議会図書館に寄贈。100年の時を越えて現代へと届けられた楽譜は、米国の地で今も音楽家たちの学びと心の糧となっています。
モーツァルトと姉ナンネルのための1曲

ピアノ協奏曲第6番は、モーツァルトが自身と鍵盤の名手であった姉ナンネルの演奏のために書いた実質的なオリジナル第2作です。(ピアノ協奏曲第1から4番は他の作品の編曲作品)
前作の第5番の堂々とした曲調に対しピアノ協奏曲第6番は、軽快さと優雅さが際立つとされるギャラント様式で書かれています。
転職活動の旅をミニマルに移動しながら、各地の聴衆へ披露する曲として最適でした。心地よい響きはサロンに流れ、訪問先の伯爵家などでも広く好まれたことでしょう。
優雅で柔らかいピアノ協奏曲第6番は、硬質な印象のチェンバロよりもフォルテピアノの音色が合うようにも感じます。
トランクに収まるこの優美な協奏曲は、若き天才の自立への夢を支えた「大切な旅の友」だったと言えるかもしれません。
編成:
ピアノ独奏
弦5部、フルート×2(第2楽章)、オーボエ(第1と3楽章)×2、ホルン×2
各楽章を解説

第1楽章 アレグロ・アペルト
[快活に、はっきりと]
第1楽章の速度指定「アレグロ・アペルト」は、この時期のモーツァルト作品に好んで用いられた独特の表現です。「アペルトaperto(開かれた)」の定義は諸説ありますが、開放的で明朗な雰囲気を指すと考えられています。
モーツァルトの「アレグロ・アペルト」曲は、ヴァイオリン協奏曲第5番、オーボエ協奏曲など、数えるほどしかありません。モーツァルト以外の作曲家では、さらに少ない印象です。この時期のモーツァルトが放った、輝かしくも気品ある傑作に共通するキーワードと言えそうです。
※フルート協奏曲第2番も第1楽章が「アレグロ・アペルト」ですが、原曲がオーボエ協奏曲です。
第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ
[歩くような速さで、少し遅く]
第2楽章では、より優しく穏やかな性格を持たせるために、オーボエがフルートに置き換えられています。約9年後に書かれる有名なピアノ協奏曲第21番の第2楽章へと繋がる「芽生え」が感じられます。
三連符の伴奏、弦楽器に弱音器をつける指定など、明らかな共通点が見て取れるからです。後の大傑作を予感させる手法が、すでに20歳のザルツブルク時代に完成されていたことに驚きを感じます。
フルートの澄んだ響きと繊細な伴奏が重なり「未来の透明感あふれるモーツァルト」を先取りしたかのような素敵な楽章です。
第3楽章 ロンドーアレグロ
[速く]
モーツァルトの「有名な曲」リストに入っていないことが不思議なほど、明るくさわやかな楽章です。力むことがなく、気取った感じもまるでない弾むようなピアノと管弦楽が最後まで気持ちを明るくさせてくれます。
ピアノと管弦楽で軽やかに交わされ、最後にはオーボエがそっと微笑むような静かな余韻を残して締めくくられます。まるで旅先で出会う清々しい風がそっと吹きすぎていくような感覚です。
ピアノ協奏曲第6番全曲はもちろん、中でも第3楽章はモーツァルトの隠れた名曲のひとつと言えないでしょうか。
(13:25あたりから第3楽章)
名盤3選の感想と解説

ゲザ・アンダ:ピアノ&指揮|カメラータ・ザルツブルク
【名盤の解説】
活気あふれるピアニズムと澄み渡る透明感があります。管弦楽のカメラータ・ザルツブルクは、モーツァルテウム音楽院の教授と学生で編成されて始まりました。モーツァルトに最適な室内オーケストラとゲザ・アンダの弾むモーツァルティズムが融合した名演奏です。
弾き振りによる世界初の全集であり、第6番がアルバムの幕開けを飾っている点も、この曲の重要性を物語っています。(2台や3台のピアノによる協奏曲は未収録)
ザルツブルク時代のモーツァルトを軽やかに表現しきった名盤であり、始まりからワクワクさせてくれる全集です。
マルコム・ビルソン:フォルテピアノ|ジョン・エリオット・ガーディナー:指揮|イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
【名盤の解説】
ビルソンが奏でるフォルテピアノは、真珠がころころと転がるような可愛らしい音色が印象的です。控えめながらもセンス光る装飾音が、曲に心地よさや生命力を与えています。
ガーディナー率いるイングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏も明朗で、作品の清々しさを余すところなく引き出しています。古楽器ならではの軽やかな対話が、聴く者の心を晴れやかにしてくれる微笑むモーツァルトを思わせる名盤です。
内田光子:ピアノ|ジェフリー・テイト:指揮|イギリス室内管弦楽団
【名盤の解説】
内田光子とジェフリー・テイト。互いへの深いリスペクトが、至高のアンサンブルを産み出しました。テイトの細やかなサポートを得て、内田光子のピアノは自由で高貴な気品をまとい、輝きを放ちます。
本アルバムはピアノと管弦楽がお互いに歌を交わし合う、バロック時代の「合奏協奏曲」に近い性格を持っています。ピアノとオーケストラが、ひとつの音楽を共に紡ぎ出すような対話が、この名盤の持ち味と言えないでしょうか。
温かな対話から生まれる瑞々しい響きは、「美の結晶」を堪能させてくれます。
まとめ

ピアノ協奏曲第6番は、若きモーツァルトが自立への夢をトランクに詰めて持ち歩いた、大切な旅の相棒でした。ザルツブルクを離れ、アウクスブルクやマンハイムの聴衆を魅了した楽譜。
教え子ローザへのモーツァルトの献身、海を超えてからはクライスラーの信念や思いやりがこの曲には込められています。第1楽章の「アペルト(開かれた)」という指定通り、今も聴く者の心を開くような、新鮮な香りを送り続けてくれています。
そっと目を閉じて聴きながら、「旅する楽譜」の物語を体感してみてはいかがでしょうか。
優しく髪をなでる初夏の風のような名曲が、あなたの日常にさわやかな風を運んでくれることと思います。
そんなわけで…
『ひとつの曲で、
たくさんな楽しみが満喫できる。
それが、クラシック音楽の醍醐味ですよね』
今回は、以上になります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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